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                       1. 歌舞伎の構成上おかしな点について


忠臣蔵二段目

元禄時代に起きた、赤穂浪士の討ち入りほど、人口に膾炙した事件はないでしょう。日本人の精神性にまで、今も影響を与え続けている
います。それを題材にした「仮名手本忠臣蔵」は、事件のおよそ40年後の寛延元年(1748年)と二年に、人形浄瑠璃と歌舞伎に相次いで舞台化され上演されました。この芝居は大ヒットしたため、江戸時代を通じてよく上演され、浮世絵も多数描かれました。

この肉筆画で描かれている「仮名手本忠臣蔵」の「二段目」は、最近はめったに上演されることがありませんので、ざっとあらすじをご紹介します。
(ウィキペディアより、括弧内は筆者による補足)


桃井館上使の場

「空も弥生のたそかれ時、桃井若狭之助安近の、館の行儀、掃き掃除、お庭の松も幾千代を守る勘の執権職、加古川本蔵行国、年の五十路の分別ざかり、上下ためつけ書院先」の床の浄瑠璃で始まる。
 桃井若狭之助の家老、加古川本蔵は、主人が師直から辱めをうけたと使用人らが噂しているのをききとがめる。そこへ本蔵の妻戸無瀬と娘小浪が出てきて、殿の奥方までも知っていると心配するので、本蔵は「それほどのお返事、なぜとりつくろうて申し上げぬ」と叱り、奥方様を御安心させようと奥に入る。そこへ、大星力弥が明日の登城時刻の口上の使者としてくる。(ここで、扇面画にある「只今使者に参るは娘小なみ いいなずけの力弥 ごちそう申しゃれ」の科白がある) 力弥に恋心を抱く小浪は母の配慮もあって(もじもじする小浪に、戸無瀬は、仮病を使って受取役をやらせようとする)、口上の受取役となるが、ぼうっとみとれてしまい返事もできない。(この時、扇子を小道具として使うのが興味深い)、そこへ主君若狭之助が現れ、口上を受け取る。


桃井館松切りの場

再び現れた本蔵は、妻と娘を去らせ、主君に師直の一件を尋ねる。若狭之助は腹の虫がおさまらず、師直を討つつもりだったことを明かす。本蔵は止めるどころか縁先の松の片枝を切り捨て、「まずこの通りに、さっぱりと遊ばせ」と挑発する。喜んだ若狭之助は奥に入る。見送った本蔵は「家来ども馬引け」と叫んで、驚く妻や娘を尻目に馬に乗って一散にどこかへ去っていく。

仮名手本忠臣蔵は、「討ち入り」に至る筋立ての一方、加古川一家の悲劇が描かれていて、この二段目はその序曲となっています。

さて、忠臣蔵を描いた浮世絵は大変多いのですが、またこの場面も当時の浮世絵師によっても、盛んに題材として取り上げられました。
思うに、まだ十代の若い男女の「出会い」の場面として、華やかで春の場面として、当時の人々の共感を得たからではないでしょうか。


写楽のライバル 初代歌川豊国の作 庭に降りて松を切る本蔵
 
写楽の同時代の喜多川歌麿の作。三者三様の表情が面白いです。
 
左 勝川春亭(1795年・寛政7年都座の舞台より)  右 勝川春英1797年・寛政九年 高師直に進物をして頭を下げる本蔵

 ここで、注意して見ていただきたい点があります。それは加古川本蔵の「髪形」と、小浪の「髪飾り」と「振袖」です。
ギリシャで発見された扇面画ですと、本蔵は「生締め」といわれる鬘で、それもとても高く結ってあります。
 また小浪の髷を飾る髪飾りには、上の浮世絵にあった派手な「丈長」や飾りのついたがなく、拵えも全体に「女房風」です。さらにこの場面を描くのなら、振袖ももっと派手で、明るくて「総模様」でないといけません。黒では場面に対して渋すぎます。
 この場面で描かれた寛政7年の河原崎の、実際の舞台ではどうだったのでしょうか?こちらにその手がかりがあります。
 早稲田大学の「近世芝居番付データベース」の検索画面に行き、その項目の「和暦」に「寛政07」、「地域」に「江戸」、そして「月日」に「05」と入力して下の、「検索」のボタンをクリックして下さ。そうしますと寛政7年・5月に河原崎座で上演された「仮名手本忠臣蔵」の「絵本番付」のデータが出ます。
 そこの「画像」をクリックしますと、当時の上演の様子が分かります。やはり上の浮世絵で描かれた図柄の近いことがお分かりいただけると思います。

   

 
 初代歌川豊国「役者略画早指南」(1817年・文化14年) 
これから見るに、本蔵は最上段の右から二番目、小浪は二段目の一番右の鬘でないと不自然に思われます。


2.元絵?との比較